ついて行きたいヒーローとは何か

なぜ今になって、『ロードス島戦記』のような王道ファンタジーを読み返したくなるのだろうか。

情報端末の急速な進歩によって、私たちはかつてないほど多くの情報に囲まれて暮らしている。

知りたいことは数秒で検索でき、AIは要約し、動画は倍速で視聴できる。
それはとても便利な世界である。

しかし、その一方で、私たちは「情報」を得ることには長けても、「物語を生きる時間」を失いつつあるのではないだろうか。

タイムパフォーマンスが重視され、
「三行で分かる」
「最強スキルですべて解決する」
といった物語が求められる時代だからこそ、その対極にある作品が静かな存在感を放ち始めている。

『ロードス島戦記』や『十二国記』は、読者に近道を与えない。

登場人物は悩み、迷い、敗れ、ときには遠回りをしながら前へ進む。
だからこそ、読者は彼らと同じ時間を生きることができる。

私は、王道ファンタジーへの回帰とは、懐古趣味ではないと思っている。
それは、知的好奇心、未知への探究心、そして子どもの頃に夢見た「冒険を生きる感覚」を、もう一度取り戻したいという願いなのではないだろうか。

『ロードス島戦記』の主人公・パーンは、聖騎士部隊を一瞬で消し炭にするような魔力も魔王を瞬殺する強大な力も持っていない。

それでも、彼は勇者である。彼の信念がそうさせているのだ。

「放っておけねえ」信念のみで前に進み、向こう見ずと揶揄する仲間も、彼を「放っておけない」とついて行く。

それは、彼が主人公であり、読者も彼に共感してついて行くからだ。つまり、彼らの冒険に引き込まれるのだ。

戦記物、ファンタジーを論じながら、逆説的ではあるが、英雄譚の主人公は自らの手を汚さない。それは、彼、彼女らがヒーロー(読者の憧れ)だからだ。

平家物語の一節として有名な「義経の弓流し」にも端的に表れているように思う。

戦いに臨めば向かうところ敵無しの勇猛果敢さで知られる義経だが、戦場で敵将を討ち取るのは熊谷直実など配下の武将たちだ。

なので、義経は戦場でも飾りの弓しか持たなかった。その貧弱な武器が海に流され敵軍に拾われて嘲笑されるのを防ぐために義経自らが命懸けで弓を拾い上げたという逸話だ。

三国志の主人公・劉備玄徳もしかり。戦場で敵兵の首を刎ね飛ばすのは関羽や張飛であって、劉備ではない。

大衆は、最強スキルですべてを解決する自己完結型のヒーローを求めているわけではないのだ。

求められているのは、ついて行きたいと思わせるヒーローだ。

ここで、疑問が生じる。なぜ?

言葉は、人間が編み出した魔物である

それは、人間を『万物の霊長』と思い上がらせた習性に起因すると私は考えている。

たとえ話をしよう。旧石器時代の昔、ライオンに襲われて命からがら逃げてきた男が、逃げてきた先を指差して「ライオン」と叫べば、危機回避に繋がり、群れの生存能力が向上したことだろう。

さらには、男はライオンから群れを守った英雄とされ、ライオンと戦い倒したと言い伝えられ、その子孫まで王として祀り上げられたりするかもしれない。そして、曖昧な記憶の中でそういった噂や神話などの物語を信じ、実際にライオンを殺してしまうのが人間だ。

言葉や伝承、

噂や神話といった時として曖昧な概念を信じ、

集団をまとめる力となり、

行動に移してしまう。

その習性こそが人間を人間たらしめている。

これはホモサピエンスの遺伝子に刷り込まれている習性であり、同時代を生きたネアンデルタール人等の異種族を駆逐する力になったと考えられる。

言葉や神話は、人間の編み出した魔物であり、それが数多な生物種を差し置いて人間を万物の霊長たらしめているのだ。

急激な情報化により、今を生きる人々がかつてないほどの時代の変動圧力に晒されている今、王道ファンタジーのような、『ついて行きたい』と思わせる物語への回帰は必然の流れなのかも知れない。

「春」
――それは、儚く過ぎ去る美しい時の流れ。人は皆、その一瞬の輝きを受け継ぎながら生きてゆく。

チャラ=リョウ博士
カトマール王立図書館 上級書士・古代史研究者
「歴史とは、勝者の記録ではなく、生きた者たちの記憶である」

このブログは、『春を紡ぐ者の叙事詩』の仮想編纂者・チャラ=リョウ博士の研究資料を、助手・比名たかしが現代日本語で編集・公開しているという設定で運営しています。


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