語り継がれる言葉と叙事詩ファンタジー
世代を超える大衆の言葉
日本には、サブカルチャーが世代を超えた文化の継承に大切な役割を果たしてきた伝統がある。
江戸時代の浮世絵、現在において世代を超えて読み継がれる漫画やアニメ。
さらに遡れば、『敦盛』に代表される能や浄瑠璃、ある意味では架空ゴシップ記事ともいえる『源氏物語』も、その時代を代表するサブカルチャーだったと言えるのかもしれない。
シェイクスピアやゲーテの戯曲、オペラなど、貴族の庇護に端を発する西洋文化とは本質的に異なり、日本には、大衆娯楽が伝統文化として昇華し、世代を超えて継承される土壌がある。
すなわち、
「大衆こそが文化の継承者である」という伝統だ。
『敦盛』の一節、「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」
は、八百年以上の時を超えた今もなお、日本人の琴線を震わせ続けている。それは、権威によって保存されたからではない。
大衆によって語り継がれてきた、生きた言葉(記憶)だからである。
樋口一葉について
明治初期の文豪・樋口一葉は、雅な大和言葉に強いこだわりを持ちながらも、「糊口をしのぐ」と自嘲しつつ珠玉の作品を世に送り出した。
それは、広く大衆に読まれることを意図した、「貧者を救う」ための小説でもあった。
その一つ『にごりえ』の主人公、お力の言葉、
「祖父は四角な文字をば読んだ人でござんす」
という一節は、日本のサブカルチャーの立ち位置を端的に表しているように思う。
江戸時代、武士の教養とされた漢詩・漢文、すなわち「四角な文字」とは一線を画す、大衆の記憶に残る言葉こそが、時代を超えて語り継がれることを、一葉は見抜いていたのではないだろうか。
司馬遷の史記について
私は、そのルーツの一つが、司馬遷の『史記』にあると考えている。
前漢時代の司馬遷は、理不尽な刑罰を受けた自身の境遇から、為政者のための歴史書を好まなかった。
勝者も敗者も、身分も、種族(漢民族と蛮族)も問わず、当事者の目線から、その生きざまを驚くべき正確さで記録した。
ある意味では、当時の正史とは異なる、もう一つの裏歴史、すなわち語り継がれるための言葉だったのかもしれない。
日本独自の文化・感性、ロードス島戦記、十二国記、鬼滅の刃について
そこへ、判官びいきのような日本的情緒が加わり、日本独自のサブカルチャーが育まれていったのだと思う。
アメコミのようなスーパーヒーローは存在しない。勝者も敗者も、善人も悪人も、富める者も、貧しき者も、区別なく、皆等しく生ける者として、その生きざまが哀しくも美しく語り継がれる。
『鬼滅の刃』を例にとると、悪役である鬼の過去と生きざままでもが哀しく美しく描かれて、人々の深い共感を呼び起こす。
私は、その系譜の延長線上に、『ロードス島戦記』や『十二国記』があると考えている。傍流に端を発した王道ファンタジー、そして少女向け読み物に端を発した国家叙事詩として、日本人の琴線に触れてきた作品群である。
そして、『しなやかな残響 ―春を紡ぐ者の叙事詩―』もまた、その系譜の末席に連なることを願っている。
勝者のための物語ではなく、生きた者たちの記憶を受け継ぐための叙事詩として。
語り継がれるとは、勝者になることではない。
人々の記憶の中で、生きた言葉として受け継がれていくことなのだと思う。
「春」
――それは、儚く過ぎ去る美しい時の流れ。人は皆、その一瞬の輝きを受け継ぎながら生きてゆく。
チャラ=リョウ博士
カトマール王立図書館 上級書士・古代史研究者
「歴史とは、勝者の記録ではなく、生きた者たちの記憶である」



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