勝者の歴史と、語り継がれる歴史の違い

二千年前、

司馬遷は、

勝者のためではなく、

生きた者たちの言葉を書き残した。

だからこそ、

『史記』は歴史書ではなく、

人間の記憶となった。

そして、

記憶は、

読む者の中で再び言葉となり、

また別の誰かへ受け継がれていく。

語り継がれるとは、

保存されることではない。

人の記憶の中で生き続けることなのである。

『月の影 影の海』の冒頭「お捜し申し上げました」の言葉ですでに物語の結末は語られている。

それなのに、主人公・陽子は魔獣に襲われ、

傷つき、迷い、人の姿をした者に騙され、

極度に絶望的な孤独の中、物語の大半を地の底を這いずりまわるようにただひたすら帰るべき場所を探し続ける。

そして、物語の最後、ようやく「捜し」あてた自らの半身である麒麟から「ずいぶんとお変わりになった」と、成長を驚愕の眼差しで承認・称賛される。

傷つき、迷う陽子が「自分に似ている気がする」と思う読者は多いはず、
そして、「似ている気がして、誰にも似ていない」とも感じる。

この感覚は矛盾してはいない。それは、『十二国記』が絶対者としての王の孤独を描いた物語だからだ。

人は皆、一人では生きて行けないのは自明の理だ。それでも、判断するのは常に自分一人。その孤独を浮き彫りにし、国家という神話の王という象徴的な存在に転嫁しているのが『十二国記』が伝える言葉だと考える。

象徴であるがゆえ、「似ている気がして、誰にも似ていない」のだ。

言葉を通して、記憶の中に生きている誰でもない「自分」でありながら、その自分を生きるのは読者そのものでしかない。

人間の言葉は曖昧で、他者の意識に移行する際、常にズレを孕み、伝わりづらい。心理学的には、言葉を尽くしても真意が伝わるのは20%程度だと言われている。

むしろ、「本心」が伝わっては困るケースも多い。

人間はこの「伝わらなさ」という絶望的な断絶を埋めるために、言葉と声、そして、その裏を読み・感じ、背景にある「物語」を想像する生き物だ。

情報が溢れかえる今こそ、「物語を生きる」力が、人間には求められている。
『十二国記』のような叙事詩が人々の心に響くのはそのためだと考えられる。

国家叙事詩とは、国家の歴史を描く物語ではない。

国家という巨大な神話の中で、それでも自分の判断と責任を引き受けなければならない人間を描く物語である。

『十二国記』は王を描いているようでいて、その実、私たち一人一人の孤独を描いている。

だからこそ、世代を超えて読み継がれているのだ。

「春」
――それは、儚く過ぎ去る美しい時の流れ。人は皆、その一瞬の輝きを受け継ぎながら生きてゆく。

チャラ=リョウ博士
カトマール王立図書館 上級書士・古代史研究者
「歴史とは、勝者の記録ではなく、生きた者たちの記憶である」

このブログは、『春を紡ぐ者の叙事詩』の仮想編纂者・チャラ=リョウ博士の研究資料を、助手・比名たかしが現代日本語で編集・公開しているという設定で運営しています。


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