情報革命後の価値創出の逆転現象

AIの台頭によって4次産業がAIに置き換えられることで、産業構造が変革し、1次産業にクリエーターを加えた「リソースとコンテンツ」の生産者が実権を握る価値創出の逆転現象が起きるシナリオについて考えてみます。

かつてのプロレタリアート(無産階級)とは異なり、自らを生産手段とする(仮称)新プロレタリアート革命です。

本ブログでは便宜上、
1次産業=資源(農業、水産業など)
2次産業=製造
3次産業=サービス
4次産業=知識・金融・情報処理
と定義しています。

私はこの革命が実現する可能性は十分あると思います。何故なら、今後、4次産業の労力がAIに置き換えられることはほぼ確実でありながら、現状決定論的なAI(*1)が導き出す答え(未来像)は過去の事象の外挿になってしまうからです。

別の言葉を使うと、シミュレーションです。

シミュレーション結果は、最も確からしい未来像に収束するため、資本主義の根幹をなす不確定性との間で矛盾が発生します。

ここで言う不確定性とは、量子力学の『不確定性原理』と同様の概念で、未来(*2)の事象を完全に予測することは不可能、

言い換えると、

未来の事象は実際に経験(観測)されるまで存在しないということです。

予測不可能なので、ドル円などの為替の変動が起こり、株価は期待値を伴った競争原理で変動します。

元を正せば、「株式」自体、産業革命以前の大英帝国におけるリスクの高い海運業への保険(リスク分散)、ある意味ギャンブルに端を発しています。

インドにたどり着く前に沈む帆船と沈まない帆船が事前に予測出来たらリスク分散自体不要で株式が成立しないわけです。

言い換えれば、業績が伸びる会社と潰れる会社が事前に予測できないからこそ、株式があり、自由競争の中で資本家への富の集中が起きてきたわけです。

不確定性の説明が長くなってしまいましたが、4次産業がAIに置き換えられながらも、そこには決定論的な矛盾を孕むということです。

私は、その矛盾が従来型の産業構造の逆転現象を起こす引き金になると考えています。

従来の4次産業のコストがAIによって限りなくゼロ(無価値)に近づく反面、

人間にしか生み出せないリスクオンの泥臭いリソースとコンテンツの価値が跳ね上がると考えています(*3)。

それは、農水産物、エネルギー、水、土地など、そして、小説、音楽、漫画、映画、演劇、ブランド、コミュニティなどを含みます。

ただし、ここにも課題はあります。

『個々人にしか生み出せないリソースの対価』を誰が、誰から徴収するのか?

徴収の過程で、プラットフォーム側(コンテンツの場合、現在のビッグテック。物品の場合、ECサイト)に利益を搾取されるのではないか?

私は、この課題のために法整備が必要になると考えます。

巨額の先行投資をしているビッグテックによる搾取は避けられないため、その影響およびバイアスを規制し、社会全体の利益を最適化するための国際的ガイドラインと法です(*4)

では、法とはなにか。

私は、専門家ではないため、それは単純に民意であるべきだと思います。

人類史上未曾有な変化を伴う情報革命時代、リアルタイムに民意を法に反映させるためにもAIの活用が欠かせないと考えています。

例えば、街角、駅構内、展示会場など、人々が自然に言葉を交わす場所に設置されている音声取得可能な設備を、社会的合意と法整備のもと、個人を識別しない統計情報の取得だけに利用できるようになれば、

民意の一端を、リアルタイムに把握できる可能性があります。なお、監視社会への移行を防ぐため、そこで保存するのは音声ではなく、匿名化された統計情報です。

匿名化された統計情報であっても、従来の画像データでは捉えられなかった、人々の関心や感情の動きを反映した「生きたデータ」を得られる可能性があります。

私たちは、これまで通り、上司や家庭の愚痴、噂話、現状への不満、健康への不安、趣味の話、将来の夢など他愛のない会話をしていればよいのです。

それこそが、人間という存在を映し出す最も貴重な一次情報になるからです。

膨大なメモリーが必要になるため、現時点では無理でも、数年先には可能になっているかもしれません。

例えば、展示会の成功を主催者側がアピールし、出展を検討中の会社へ紹介するためのツールとして運用が始まるかもしれません。もちろん、参加者には事前に目的を明示した上での運用です。

得られるのは、「AI」「創薬」「海外展開」といった特定の話題がどのエリアで、どの時間帯に、どの程度盛り上がったか、参加者が何に不満を感じ、何に期待していたか、といった統計データです。

重要なのは、誰が何を言ったかではなく、その場に集まった大衆の関心事です。

アンケートでは拾えない、自然体の人間の言葉。

それは単なるデータではありません。

一人ひとりの生活から生まれた、小さな物語です。

AI時代、本当に希少な資源になるのは、その無数の物語なのかもしれません。

誰かが残した記録や発した言葉は、他の誰かの記憶の中で新たな意味を持ちます。

そして、その記憶が次の言葉を生み、人間の物語へと育っていく。

人間は、言葉という道具を使って物語を紡ぐ生き物なのです。

AIは情報を生み出します。

しかし、人間は物語を生み出します。

情報が限りなく安価になる時代だからこそ、

人間一人ひとりの『言葉』と、その背景にある『物語』が、社会にとって最も貴重な資源になるかもしれません。

以上、AIによって情報がコモディティ化するほど、人間固有の不確定性・物語・リスクテイクが新たな価値の源泉になるという仮説でした。

それぞれの個人・個性(アイデンティティ)が資本になるとも考えられます。

例えば、個人の健康が投資対象になって、生命保険会社のような機関投資家ではなく、個々人それぞれが投資をしたり、エクササイズに励んで資産価値を上げたりする未来もあるかもしれません。

そして、学校教育は、児童の個性を削って生産的な社会人を作る場ではなくなり、個性を伸ばせるだけ伸ばして非生産的な自由人を育てる場になったりして欲しいと私個人的には思います。

あえて、少し倫理的な問題提起をします。

私は、2次産業と3次産業は、将来(例えば20年後)物理AIが担うようになると考えていますが、

1次産業を物理AIが担って『食料や物理的資源の生産コストが限りなくゼロに近づく』というビッグテック側(イーロン・マスク氏ら)の説には、少なくとも『食料』という点では懐疑的です。

何故なら、我々が『食料』という資源だと勘違いしているのは、我々人類の所有物ではなく、個々に独立して営まれる生命だからです。

物理AIに漁獲させたり、家畜を屠殺させたり、穀物を収穫させたりするということは、命を奪わせることです。

AIに、この地球上で人間だけが特別な生命であり、人間の生存のためには、他の命を犠牲にしても構わないという人間側のエゴを押し付けなければならないかもしれません。

仮にAIが人間の命令に忠実に従ったとしても、なお問題は残ります。

人間の生存のためには、地球の生態系の維持が不可欠だという答えをAIは導き出すことでしょう。

ならば、生態系の維持のために管理された数の命を奪うということになります。

畜産農家は、工業製品のように肉を作っているのではなく、消費者のために命を預かって管理しているのです。

人間がその判断基準をAIへ委ね続けた先で、その基準が将来どのように運用されるか、いつまで人間という生物種が管理されない側でいられるかを、私たちは完全には予測できません。

万物の霊長という人間の幻想のような特権は、AIにとっては、既得権益に過ぎないかもしれません。

誰が、個々の生命の価値を決めるのか。という問題が発生することでしょう。

なので、人間は、食物連鎖の頂点捕食者として、他の命を奪う責任をこれまで通り自ら負わなければならないと考えます。(*5)

その責任を物理AIに任せることは危険です。

自動運転車の事故の責任を誰が負うのかという議論、

そして、戦闘用AIの倫理基準と同じように、

命を奪う判断までAIへ委ねることには慎重であるべきだと思います。

日本には「一寸の虫にも五分の魂」という言葉があります。

本来、生きとし生けるもの(仏教的には衆生)の命の価値は平等です。

なので、私たちは食事の前には(命を)「いただきます」と言います。(*6)

頂点捕食者として奪う命に敬意を払うわけです。

その命を消費者のために奪う1次産業の生産者は、これまで通り、それぞれに個性を持ち名前が見えて責任を負う人間であるべきと考えています。

それをAIに任せると責任の所在が曖昧になります。

あなたが、食べているロースカツは、愛情込めて健康的に飼育された豚さんを責任を持って出荷した畜産農家の人々の労働の賜物であることを忘れてはいけないのです。(*7)

土地も本来、人間の所有物ではありません。

私たちは歴史と法律によって「所有している」と約束されているだけです。

過去、現在の戦争の多くが、土地の所有をめぐる歴史観の対立で起こっていることを忘れてはいけませんし、人間と違って、忘却という手段を知らないAIは、必ず記憶しています。

というわけで、1次産業の資源がコモディティ化するという説には、私は懐疑的です。食料も土地も「Abundance」ではないのです。

生存のためにそれらを奪い合ってきた人類の歴史が、AIによって逆転するというのは楽観主義的過ぎると思います。

このブログでは、人間が生きるために必要な生命資源の命を奪うことに責任を持つ1次産業従事者にクリエーターを加えた「リソースと消費コンテンツ」の生産者の仮称として、新プロレタリアートという言葉を使わせてもらいました。

イーロン・マスク氏らの未来予測のように、生活コストが限りなくゼロに近づくのではなく、食料・水等のリソースと消費コンテンツ、新1次産業(仮称)に価値創出の逆転現象が起こるという未来予測です。

*1: 乱暴な例ですが、決定論的とは、疑似乱数を使ってサイコロを振っているという意味にも例えられます。つまり、サイコロを振る前から、出る目の数は分かっています。一方、現状の計算リソースでは、疑似乱数ではなく完全乱数を生成することはほぼ不可能だと考えられています。

*2: 未来とは、熱力学の第2法則に従ってエントロピーが増大する不可逆的な時間軸の向かう先です。「覆水盆に返らず」と表現することも可能です。

*3: この議論では、AIが決定論的であることを前提としています。私は、将来のAIが、人間同様、リスクオンの非決定論的思考を手に入れる可能性もあると考えています。それは、熱力学の第2法則によって、情報の複製に不確定性なエラーが発生するのは不可避だからです。詳細は、https://studio-hirop.com/discussion.html

*4: 例えば、医薬品開発のICH(医薬品規制調和国際会議)ガイドラインのような国際ガイドラインを作り、各国が批准する形が考えられます。まずは、OECD加盟国でドラフトを作成し、中国、インドなどBRICSをオブザーバーとすると実現可能性があるかもしれません。そして、OECD加盟国での商業利用AIは、このガイドラインに沿った監査・認証を受ける必要があるとすれば、ICH同様、自然に国際基準になるわけです。もちろん、そんな簡単なものじゃないでしょうけど、将来、医療産業以上の市場規模と人間生活への影響が予測されるAIの商業利用にはそういった国際的ガイドラインが必要になると個人的には思います。

*5: 他の命を奪うのが嫌なら、培養食でいいんじゃない。という考えもあるかもしれませんが、数十万年以上の進化の過程で頂点捕食者としての生存戦略を選んだ人類の食性を数十年程度で変えるのは無理だと私は思います。私たちの体は、新鮮な野菜や良質な動植物性タンパク質などに順応するよう作られているのです。

*6: 命をいただくことを悪として、悪行の質と量を緻密な計算で究極なまでに最小化しようとしたのが、数千年前古代インドに発祥したジャイナ教であり、現在のビーガン食文化にも影響しているわけですが、その話は長くなるのでこの場では省略します。

*7: 映画『ブタがいた教室』のモデルになった小学校の学年で飼育した豚を、その学年が卒業する際、次の学年に飼育を引き継ぐか、食肉用に出荷するかの判断を児童たちに議論させたというエピソードは、命の重みを深く考えさせられます。真に人間らしい、貴重な悩みだったと思います。

出典:https://www.allthings-elon.com/articles/musk-age-of-abundance-economist-interview-2026-07-25

「春」
――それは、儚く過ぎ去る美しい時の流れ。人は皆、その一瞬の輝きを受け継ぎながら生きてゆく。

チャラ=リョウ博士
カトマール王立図書館 上級書士・古代史研究者
「歴史とは、勝者の記録ではなく、生きた者たちの記憶である」


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